系図と歴史

藤原鎌足・・・・・生誕:614年(飛鳥時代-推古天皇)
       死没:669年(飛鳥時代-天智天皇)
       出生地:大和国高市郡藤原(現:奈良県橿原市)
       中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の側近として“大化の改新”を推進。( 後の、赤堀三家の
       祖先)
藤原秀郷・・・・・藤原鎌足八世の孫 (別名:田原(俵)藤太秀郷)
      ・平安時代(794~1192)中期の貴族・武将
      ・平将門を討伐して下野守となった。(下野:現在の栃木県)
      ・三上山(近江富士)の大ムカデを弓矢で退治した時に、琵琶湖の龍神様からその褒
       賞として“兜”を贈られた。と言い伝えられており、この兜が、現在鵜森神社に社宝
       として保管されている。
田原又太郎忠綱・・・・・藤原秀郷十一世の孫
前守佐野景綱・・・・・忠綱の従弟
田原孫太郎景信・・・・・景綱の八世
田原美作守忠秀・・・・・景信の末子  
 ・室町時代の文明2年(1470)に浜田城を築城(初代浜田城主)
 ・浜田城3代城主田原遠江守元綱が天正3年(1575)6月6日織田信長の武将である瀧川一
  益に攻められ、落城。その時、息子である重綱は逃げ延びて、その後皮肉にも織田信雄に仕え
  たが、天正12年(1584)羽柴秀吉が織田信雄を攻め、田原重綱も討ち死にし、田原家は
  滅亡した。一方、落城した浜田城は瀧川雄利が浜田城に立てこもり修復し居城していたが、羽
  柴秀吉に浜田城を攻められて完全に落城した。
鵜森大明神の創立・・・慶長以後万治以前(1596~1658)
 浜田城落城後に生き延びた旧田原家の家臣である田原美作守忠秀の次男で堀木家の始祖となった
 弥兵衛秀常の孫“定直”達が中心となって同家の遠祖である田原(藤原)藤太秀郷及び浜田城主4
 代の霊を祀る為に、城跡に祠(ほこら)を建てたのが始まりと言われている。
 尚、定直は浜田家(田原家)直系の子孫で慶長年間に浜田村庄屋を務めた村の最有力者であり、
 浜田家滅亡後も田原家伝来の兜を保管していたとされる人物。
御霊社の創立・・・・・・・天保8年(1837)に創立
 鵜森大明神は上記の如く、田原家(浜田家)の霊を祀っているが、普通の神社のように神代の何
 々の命を祀る社とは違っていたので社号を「神明宮・天王宮」と改め、表面上、祭神は天照大神
 と須佐之男命としていた。
 其の後、神社の規制が無干渉となったことで、いったん消滅の形となっていた田原家4代の霊を
 新しく別殿に祀ることとなった。これが御霊社の創建である。
神社の合祀令・・・・・・ 明治政府は、明治37年頃より日本全国の氏神等の集落神社の整理・統
 廃合を要請し始めた。そして現代と同様市町村の合併も急ぐとともに、神社も一町村に一社を標
 準とした。この合祀令の為に、我が三重県では全国最大規模の大整理が実施された。
 参考までに、整理直前の神社数と整理が終了した大正2年の神社数を比較すると減少数僅かに3
 3社という青森県に対して三重県は何と6180社にも達した。
 本県には、伊勢神宮が鎮座し、神宮皇學館があるので、神社整理をモデル的に実施する使命を帯
 びていたと想像される。
 鵜森神社も諏訪神社に合祀の奨励があったようであるが、当時の諏訪神社神主生川鉄忠が強力に
 反対して事なきを得たと言われている。
 鵜森神社が今日あるのは彼の尽力によるといっても過言ではなさそうである。
鵜森神社への改称・・・・・明治42年(1909)神社合祀令により菅原神社・御霊社・鵜森大明
 神を合祀し、4月16日従来の鵜森大明神を現在の「鵜森神社」に改称した。
平成の大造営・・・・・・・・平成天皇御即位の大典を記念し平成2年11月新社殿(本殿・拝殿)を
 再建した。尚、年月の経過とともに、社務所・稲荷社等も建築以来百年前後となり、老朽化して
 きたことから再建することとなった。
 社務所     平成4年10月10日再建
 田原稲荷    平成7年10月10日再建